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2017.1122 O.A 釧路労災病院 外科 石川倫啓氏

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<part1> 
まずお名前のお話しです。今まで正しく読めた方に出会ったことがないそう。倫理の倫と拝啓の啓と書いてともひろと読みます。りんけいとか、みちひろとか、のりひろとか読まれるそう。倫という字には人の道みたいな意味合いがあると思うので、そういったものを踏み間違えないような人生を歩んでいってほしいという意味で付けられたとおっしゃっていました。小さい頃から漠然とお医者さんになりたいと気持ちがあったそうです。身近に医師がいたという生活でもなく、テレビの影響はあるかもしれない・・と。中学1年生位の頃にご自身が飼っていたハムスターが予期せぬ形でなくなるという事がありました。「学校から帰ってきたらそういう状態で何を思ったか知らないけれど小さな体に心臓マッサージをしていたんですよ。指2本でクロスにして一生懸命。もちろん残念な形になったんですが・・・。」そんな事があり、元々あったぼんやりとした思いと相まって、そこで初めて明確な「やっぱり俺医者になろうかな」と思われたそう。命に触れる、命を助ける仕事をやりたいと思ったのです。そこからぶれていないと。これと決めたら突き進むという感じでしょうか。
実は医師になりたての頃は外科にあまり興味がなかったそうです。学生時代から小児科に進もうと考えていらしたそうです。「もちろん人の命を救うという大前提があります。例えば病気や怪我で子供たちの未来が閉ざされてしまうというのは、非常に残念なこと。であればもし自分で力になれるのであれば・・と思った事があったので、小児科医にと思っていたんです。」小児科が嫌になったというのではなく、急に外科に進みたくなったそう。外科は実際に自分で手を動かして何かをして結果がかえってきます。自分がやった事の結果として目に見える形でかえってくるという事にやりがいを感じたのです。なおかつ、上司の医師がすごく自分の中で印象的だったと。こういう人になりたいという人に出会ったのです。
<part2> 
上司の方はいわゆる理想とするドクター像そのものだったそう。外科医なので必ず手術はついてきます。その手術を真似したいなと思える医師。他職種の人とも協調性があり、何より患者さんにすごく親切で、患者さんの立場にたって話をしたり・・というのを間近で見て、この人すごいなと思った先生。また、オフの時間も楽しい方。若手にも分け隔てなく接してくれ、人間的に憧れていらっしゃるそうです。
中学で野球をやったそうですが、腰を痛め断念。中学入学時に身長が低く、中三で急に身長が伸びました。身体の成長と骨の成長がアンバランスになり、痛めてしまったそう。同時に膝も痛めたのです。大学でテニス部に入ったそうですが、やはり腰が痛くなり1年足らずで断念。ですからスポーツはなかなかやるのが厳しいそう。そこで大学時代に音楽をやることに。軽音楽部に所属、バンドを組みライブをなさったそう。当初はコピー、最終的には自分たちで制作活動もなさったそうです。「バンドはギターは華やかに見えるけれど、ドラムとベースがしっかりしていると格好良いんです。」ベース担当です。
釧路でやってみたいことは、1回で良いので釣りをしてみたいそう。去年からその様な思いはあったそうですが、準備が大変だなと・・。アウトドアもお好き。でも準備が大変。準備が大変なので腰が重いみたいです。
仕事では、充実している毎日。臨時手術などで忙しいもあり、穏やかな日もあり、メリハリがあるそう。今は腹腔鏡手術をなさっていますが、むしろこれが今後下火になっていくかもなんて。「今後ロボットがとってかわってしまうかも?・・いや!でも僕は個人的には無理じゃないかなと思いますけどね。人の手術をロボットだけが・・というのはまず無理ではないかと思いますね。」できるだけ患者さんの立場にたって、物事を考えていけたら良いのかなと思いながら日々頑張られていらっしゃいます。
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2017.1115 O.A 釧路協立病院 内科&桜ヶ岡医院 院長 石川晶氏

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<part1> 
まず、前回ご出演いただいたのが約1年前。その時の復習から。「めざせ!かかりつけスタッフプロジェクト」これには3本柱があり、それぞれを叶える事で、釧路の中でより地域の方々が住みやすい街になるのでは・・・と動き出したプロジェクトでした。1つは、在宅医療をもう少し幅広く展開し、より強固なものにしていく。2つめは、入院時に皆でカンファレンス、打ち合わせをして問題点を明らかにした上で、入院した初期から速やかになるべくコンパクトな形での対応をする。そして3つめは、退院した後にお家にお邪魔する形で、その方の暮らしぶりを拝見して自分たちの治療療養のフィードバック、どういう風に働きかけができたのか振り返ること。石川氏にとってもともとやりたかったこの分野。少しずつできているかな?と。1つ目の課題に関しては、実際に少しずつ市内の病院や診療所、ケアマネージャーの方からの紹介等もいただくようになり、街の方々の認知もされるようになってきたかなと・・手応えは感じていらっしゃるそう。自分たちの課題はまだあるそうですが、少しずつ自分達のやっている事が一歩前進してきたかな?と思うそうです。2つ目に関しては、ネックになるのが時間の合間に色々な職員の方が集まって話しをする機会が作れない事。それぞれが違った働き方をしていて、同じ時間に集まって机を囲むことが難しかった。でもその必要性や重要性がわかるようになり、だんだんそれをやる事のメリットが入院の治療中にみえてくる事があり、少しずつ皆んなの納得が得られてきたのを実感しているそう。元々どういう暮らしをしていたのか、どういう風に立て直したら家の生活がよりうまくいくのだろうかを入院の最初の時に考えておくとゴールが設定しやすくなるので、今から何をするのかという発想が結びつきやすくなるのです。おそらく一番難しいと思われるのが3つめの課題。道東でかなり範囲が広い所から入院される方もいらして、退院された後訪問するのが難しいという物理的な問題があるそう。でもそれも少しずつ実行なさっているそうです。
<part2> 
今週末に開催される講演会のお話しです。石川氏は協立病院で、暮らしの中でどういう風にその方達の生きて行く生活の支えができるかという事を常日ごろ考えて働いていらっしゃいます。特に在宅医療をされている方の実際はどんな形なのかということを紹介させていただくそう。その中で少しでも家で暮らす事ができるんだとか、こんな不安な状態があるけれど、もしかしたら自分も家に帰れるのではないか等少しでも希望の持てる話しや自分たちにこういう手段があるんだと知ってもらう機会になったら・・と。誰が対象という訳ではなく、暮らしを営むすべての人の支えになる話しです。クイズ形式で進行なさるとか。
緩和ケアは病気を選ばないので、何か症状があって苦しいものを和らげるのが緩和医療。積極的な治療で何か病気を治していくという事と、もう一方で、その症状を和らげるというのがあり、その比率で治療が決まるそう。どの人もどの病気であっても何か症状に苛まれて苦しい思いをした時には緩和治療はそばにあり、その病気を治すのと、もう一方で和らげる治療があるのです。だから誰が聞いても損はない大事な話しだと思います。「暮らしの中で一人一人の方々の援助ができたらと思っています。その中で家で治療をするという事を中には選ぶ方もいらっしゃる。それができる事はもっとあるはずだし、もっと多くの方が利用できるはずなのに認知されていない。利用するしないは別として、実際にそういう医療があるんだとか、そういう事が自分達の助けになるかもしれないという事をどこか頭の片隅にでも入れておいていただくだけでも良いので、一緒に何かを考えるきっかけになれば嬉しいです。」
・・・・・・・・・・・・
釧路労災病院 緩和ケア市民公開講座
11月18日(土)14:00〜15:40(予定)  釧路労災病院 3階講堂 入場無料、申し込み不要
講演1「緩和ケアとは」
 講師:釧路労災病院 副院長 小笠原和宏氏
講演2「くらしを支える力になりたい〜釧路協立病院での在宅医療の実際〜」
 座長:釧路労災病院 副院長 小笠原和宏氏
 講師:道東勤医協釧路協立病院 内科科長 石川晶氏
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2017.1108 O.A 釧路労災病院 院長 野々村克也氏

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<part1> 
臓器移植についてのお話しです。例えば、心臓移植、肝臓移植、腎臓移植という言葉はお聞きになった方はいらっしゃると思います。移植医療というのは、20世紀に確立した医療のひとつ。自分の臓器が使えなくなった場合、他の方の臓器を移植すると命を永らえることができる・・という医療。実際に少しずつ普及してきたのは、腎臓移植と肝臓移植なのだそう。腎臓や肝臓は生きている方から臓器を提供してもらうことはできますが、心臓はもらうことができません。お亡くなりになる時は心臓が止まる時。心臓が止まった方から止まった心臓を取り出して移植してもこれは機能しません。そこで問題になるのが脳死。脳死の状態で心臓を取り出して直ちに移植するということになれば、心臓移植が可能となります。海外では広く行われているそうです。日本では脳死における移植というのが普及が進んでいないとか。臓器移植法が1997年にでき、2010年になる前は子供の脳死移植は禁じられていたそうです。ですから心臓移植が必要な小さなお子さんはアメリカに行って移植をうける形だったのです。これが2010年以降に日本でも可能となったということ。でもなかなかまだハードルが高く実際にはアメリカに行かれる方もいらっしゃるそう。
移植を待っている方々は、心臓であれば心不全、肝臓ですと肝不全、要するに機能が衰えている方々。心臓だと数字的には600人位、肝臓や膵臓は200〜300人位、腎臓に関しては人工透析をしていれば腎臓腎不全の方は、移植を待っていらっしゃるそう。数にすると12000人位。日本でも医療費の高騰が問題になっていますが、その中で大きく比率を占めているのが人工腎臓。ものすごくお金がかかるのです。さらに週に3回位拘束されます。ところが移植すると生活の質の向上につながるのです。腎臓移植と他の移植との大きな違いは、腎臓移植はQOLを改善させる医療。他の臓器移植は生命を助ける医療ということ。
<part2> 
日本では、腎臓移植はもちろん肝臓移植は全国的に行われています。今では一般的な医療として受け入れられているのです。一番移植している名古屋の第二赤十字病院で年間100例ちかく。ですから日常的に行われている手術といえると。ただ、心臓移植についてはそうではないそうです。心臓移植を日本ではじめて行ったのは1968年。この時は脳死判定も曖昧で、なかなか同意が得られないまま行われたそうで、倫理的に受け入れられない事がマスコミを通じて広まり、実際には裁判で起訴される事態になったそうです。それ以降、医療界も含め心臓移植に関しては北海道は冬の時代を迎えることに。その後色々な問題がクリアーされ45年後の2014年に北海道では第二例目の心臓移植が北大病院で行われ、無事に成功し、雪解けとなったそうです。
道東では腎臓移植が行われているだけ。市立釧路総合病院で年間4〜5例あるそう。一番最初に市立釧路総合病院で移植したのは、1984年で第1例目が現在、釧路市医師会長をなさっている久島医師。それから現在まで市立釧路総合病院では61例行っているそうです。
現在、腎不全になるのは1番大きい原因は糖尿病。糖尿病で腎不全にならない様に、それを予防しようと来年度から実際に釧路市と医師会が動きだすそうです。手帳なども用意してそれを普及させる等色々なことに取り組む予定になっているとおっしゃっていました。実は糖尿病になっていても気づかずにずっと過ごしている場合があるそうです。そうすると腎不全になってしまいます。糖尿病は細かい血管が痛むもの。腎臓は細かい血管のかたまりです。高血圧もそれに関係しているそう。血圧のコントロール、血糖値のコントロールなどを早期からやっていれば、たとえ糖尿病で色々な治療をしていても腎不全にはならないそう。糖尿病を含めて生活習慣病の最後のところに腎不全というものがあると考えた方が良いそうです。
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2017.1101 O.A 釧路労災病院 外科 佐野修平氏

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<part1> 
お父様が外科医をなさっていて、小さい頃から医師は良い職業だと聞かされていたそう。中学高校時代は言われれば言われるほど反発した事もあったそうですが、お父様の姿をご覧になっていてやはり良い職業だと思い、それを目指す形になったそうです。医師になった後もどの科に所属するのか、色々な科で迷ったそう。救急も憧れた時もあり、目の中の手術はとても綺麗で繊細で顕微鏡覗きながらやるのですが、その眼科に憧れた事も。結局消化器外科という道に。お父様の医師としてすごいと思われるところは、ご自身が小学生の頃は土日に公園に遊びに連れていってもらい、友達を20人位集めて草野球をやったりとか、結構遊んでくれたそうです。とても忙しかったと思うのですが、その中で家庭も大事にしてくれたところが尊敬するところかなとおっしゃっていました。消化器外科を選んだのは、お父様の影響もあるそうですが、一番の理由は、腹腔鏡の手術を見て、画面を見ながら手元を動かし操作し細かい作業をするというところに興味を抱いたと。手術といっても色々なものがあり、簡単なものから難しいものまであります。簡単なものから入り、段々レベルアップしていく。自分は今その途中にいると思うと。他の先生の手術を見ながらとか、助手で入らせてもらいながら勉強してだんだん上達していく過程がすごく充実していると感じているそうです。
理想のドクターとは・・やはり患者さんは当たり前だけど人間。モニター画面を見ながら手術をしているとどうしてもそれを忘れてしまう瞬間がふとある様な気がするそうです。その方の中では人生の中で一番山場かもしれないところで命を預かり手術をしているので、その様なことを忘れない医師。手術の後もしっかり管理して患者さんと信頼関係を築く事ができ、元気な顔で帰ってもらえるように、手術の技術ももちろんですが、その患者さんとの関わりも大事にすることを忘れない医師が理想のドクター像と教えていただきました。
<part2> 
野球はお父様がお好き。その影響もあり、中学時代に野球部に。でも高校時代にバレーボールに。そして大学に入り野球部に1年間だけ所属。守備が大嫌いでバッティングが大好きとか。ところが観るのはサッカー。好きな選手はリオネル・メッシ。サッカー選手の中では身長が低い方。彼の小ささをいかした細かなドリブル、それで相手を抜きさり、シュートも足が短いのにパワーのあるシュートを精密に打つ。そこが魅力と。日本人では香川選手。彼のドリブルが好きとおっしゃっていました。「僕ドリブルが好きなので」
また、金魚すくいが得意。小さな頃から金魚すくいが異常に上手で、いくら掬っても、掬う紙のポイが割れなくていつまでもとっているので、どんどん人だかりができたそう。1回に10〜20匹くらいはとれていたそう。やはりそれにはコツがあるそうです。斜めにポイを入れてあまり動かさずに垂直にあげる。意外と水の中にあってもあるだけなら破れないそう。ゆっくり動かすと金魚も意外と逃げない。誰かに教わったわけではないそうで、なんとなくできたとか。「でもこんなところに才能を使ってもったいないと思うんですけど」学生時代は休みを利用して友達と東南アジアに行かれたそうです。タイの屋台村でカオマンガイというライスの上にチキンのステーキみたいなものがのっている料理があり、それが安くてとても美味しかったと教えてくれました。翌日一緒に行った一人がお腹をこわしてしまい、移動が鉄道だったのでずっとうずくまって、帰ってきてから1泊入院したというエピソード付きですが。他にマレーシア、韓国、台湾等。シンガポールは少々お金はかかったそうですが、もう一度行きたいそうです。ナイトサファリが最高だったと。普段みる事のできない夜行性の動物が動き回っていて、ものすごく近くで観る事ができるそうです。
ポリシーは初心を忘れない事。「患者さんの気持ちになり、技術だけに走らず、タイミング毎に初心にかえり自分が今きちんと患者さんと真摯に向き合えているのかを確認しながら進める事が大事だと思っています。」
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2017.1025 O.A 国立極地研究所 南極観測センター 医療隊員 宮岡陽一氏

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<part1> 
今回は番外編。宮岡氏から第59次南極観測隊の医療隊員に任命されたという連絡をいただき、急遽電話でお話しを伺いました。10月27日に成田を出発。いよいよ夢の実現です。専門は外科、それ以外に産業医の免許、旅行医学界の認定医の資格を取得、医療以外にも雪上車等を運転する事もあるので、その資格を取得。また、基本的に船は1年に1回しか南極に行かないので、1年分の薬を準備。風邪薬や怪我をした時の治療薬、今までの歴史の中で必要だったものをまとめたり、盲腸等の簡単な手術ができる様な準備も。さらに、歯科医がいないので、歯科医院にお邪魔して練習をしたり、レントゲンの撮り方、採血した後の血をどうやって検査に出すのか等も勉強なさったそうです。今回の件で、仕事をする上で様々な人に支えられてきた事を再認識なさったとおっしゃっていました。今回の第59次南極観測隊は全員で70名位。南極に着いたら船は3〜4ヶ月(夏の間)いるそうです。その船がいる間だけ働く人達が70人中40人位。南極のペンギンの調査、氷の調査等を行うのです。残りの30人位が1年間南極にいることに。その中に宮岡氏も含まれます。30人の方達の多くは気象庁の方、他、オーロラの研究をされる方、南極の大気を調査をする方、基地の建物を作る方、電気の配線をする工事の方、機械を修理する専門家、そして医療関係の方々。宮岡氏が実際にやる事は、隊員の3ヶ月に1度の採血とレントゲン検査、南極にまつわるメンタル的なこと等の医学研究。また、南極の雪や氷をとかして水道水にするための水質調査。さらに、冬の間は30人しかいないので、雪かきのお手伝い、緊急連絡の為の無線や料理のお手伝いもあるそうです。実は昭和基地は南極の大陸の所にあるのではなく、数百メートル離れた東オングル島の中にあるそう。行動範囲は結構広く、南極に日本の基地は今活動しているのが2つ。昭和基地ともう一つの基地は1000km離れているそう。そこに行くミッションもあるそうです。少し大きめの雪上車をつなげて、その後ろにソリを7〜8基つなげてドラム缶に入れた燃料を運んでいく旅なのだそう。
<part2> 
子供の頃読んだ本の中に植村直巳さんの自伝的な本があり、自分もやってみたいと思ったそう。それに加えて、医師を扱ったテレビドラマを見て、医師もやってみたいと思われました。それから医師と冒険家を両方できるものがないかを探した時に南極観測隊の存在を知り、この道を目指したのです。大学5年生の時にたまたま入った飲み屋さんのカウンターで隣に座った老人が南極の事を話していて、実は50年前に南極に行かれたお医者さんだったと判明。その方から南極に行かれた方を沢山紹介していただき、当時稚内の病院長をなさっていた高木先生も紹介していただいたそう。当時鳥取にいらした宮岡氏は北海道で医師として仕事を始めようと稚内に。高木先生はたまたま外科医だったので、「じゃあ僕も外科医になります」と決められたとか。
「もちろん自分の仕事は医療隊員なので健康管理。全員が無事生きて帰って来る事は一番の目標。でも本音は、南極の氷でウイスキーを飲んでみたい!!」と。南極の氷は、数万年前の空気が氷の中に入っていると言われているそうです。深い所に行けば行くほど古い大気の空気が氷の中に入っていると言われているそう。南極の氷はずっと動かないわけではなく、毎年ゆっくり動いているらしいのです。数万年前の氷も少しずつ動いていて氷の表面の方にも出てくるとか。その氷を是非割って嗜みたいと。南極の氷は基本的にはあまり味がしないそう。南極の中心から海の方に向かって流れていくらしいので、海水とかは混じっていないみたいです。色も基本的には透明。氷が溶けていくと空気が弾ける音がパチパチと聞こえるとか。他には赤いオーロラもオーロラを是非見てみたいとも。南極から帰ってきたら、大学院でしばらくは研究をなさるそう。でも、稚内や釧路で勉強し、地域医療の重要性も非常に痛感したので、何らかの形で地域に還元したいと考えていらっしゃいます。「色々不安もあるけれど、みんな健康でミッションを無事成功し、笑って帰って来たいです。」
※今年2月乗鞍高原で撮影した写真をお借りしました。左側が観測隊長、右が越冬隊長、真中が宮岡氏。
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2017.1018 O.A 市立釧路総合病院 泌尿器科 村雲雅志氏

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<part1> 
最近なさった講演についてのお話しです。釧路市の健康福祉課で性教育の問題を熱心に取り上げていて、高校生を対象に性の問題について講義をするというのが始まり。先日、一般大人を対象に男性というものを医学的にきちんと考えていこうということで男の「性」を考えるという講演をなさいました。まずは、性というのはどうやって決まるのでしょう?人間という動物を考える時に、基本の型は、女性型なのだとか。女性型になるところに男性ホルモンが色々な形で関わり、男のからだ、男の心ができあがってくるそうです。それがうまくいく為には色々なステップがあり、どこかで狂うと、完成しない形になるそう。男性と女性という極端な形が2つだけあるのではなく、色々な関わり方、段階によって、中間の型もあり、体と心が必ずしも一致するとは限らないので、その中を揺れ動く場合もあるとのこと。さて、その性別はどう決まるかですが、まず遺伝子のレベルで決まるそうです。遺伝子の中で性を決定する遺伝子と言われている通常Y染色体と言われているものから正しい情報が読み取られて、それが色々な酵素タンパク質といったものにかわり、きちんと作用して初めて細胞が男性化を始めるのだそう。だいたい妊娠の6週位の頃。女性でいうと卵巣、男性でいうと精巣、どちらともつかないようなものが最初に出来始め、そこに遺伝子がうまくいくと精巣に変わっていくそう。そこではじめて胎児の時に男性ホルモンが少し作られるのだそう。それがだいたい妊娠の8週から10週の頃。この頃に男の子の方向、女の子の方向に分かれていくのです。ところが男性ホルモンは、神経にも作用します。脳への作用が出てくるのが、そこから2~3週遅れるそう。体が先に決まり、脳というか考え方、心の部分も、実は胎児の時に相当影響を受けるそうです。だからその時に例えばお母さんがすごいストレスを受けたり、なんらかの薬の影響がある場合に、脳の方の男性化がうまくいかなくなる事があるそう。そこで心と体が一致しないという事もおこり得る訳なのです。ですから、これは誰にでもおこり得る事とおっしゃっていました。
<part2> 
男性と女性の考え方の違いについてのお話しです。男女の脳の違いがそもそもあるそう。脳の中の部品の組み合わせ、回路のつながり方が結構違っているという事が最近わかってきたと。そもそも考え方が違うのです。例えば、男性の場合、女性に対する欲望が一直線で燃えやすく冷めやすいとしたら、女性の場合は、相手に対する感情や思っている事、やることが同時進行で脳の色々なところでおこると言われているそうです。これは胎児の頃のホルモンによる脳の変化の時にすでにかなりの部分が運命づけられているとも言われているそうです。今までは研究手段がなかったのですが、最近では脳のPETなどが色々出てきたので今までわからなかったことがわかる様になったのです。従来あくまで推理されていた事が証明される様になってきたという事です。
続いて男の更年期について。正式には医学的な言葉ではありません。ただ、一般的な状態を説明するのにとても便利でわかりやすいということです。女性の場合はだいたい50歳前後で女性ホルモンが減ってくるので体の変化がドラマティックに出てきます。男性の場合は、男性ホルモンは女性ほどドラマティックな変化はなく、50〜60〜70と緩やかに少しずつ減ってくるそう。男性ホルモンは、筋肉を強くする、脳に働きかけて少し攻撃的なというか活動的な状況にする、骨を強くする、記憶力を増進させる、血を増やす等色々な作用があるそう。それが徐々に減ってくるとそれなりに体の変化は出てくる訳です。そして、50歳過ぎの男性は社会的な状況が変わってくる時期でもあります。仕事の事、家族の事なども考え精神的変調もきたしやすくなるのです。その様な変化を総合的に表現する言葉として「男の更年期」ということを提唱している人達がいるそうです。
生きるという事と生殖は切っても切り離せません。性という字は、心が生きると書きます。生き生きとした心があるということと、性の問題は切り離せないということの様です。
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2017.1011 O.A 市立釧路総合病院 研修医 小林誠司氏

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<part1> 
医師になる前に実は他の大学に行かれて、さらに働いていらっしゃったそうです。そもそも高校時代には医師を目指されたそう。当時は臨床というよりは医学の研究をなさりたいと思われていました。大学では薬の研究開発、土の中から微生物を探して、それが何か薬を作らないかな?という事を研究なさっていたとか。土の中には人間にとって有用な微生物がたくさんいるそうで、まだまだ色々な可能性が残っているそうです。ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏がなさっていた事と殆ど同じ研究内容と。研究自体は面白かったそうですが、さすがにノーベル賞をとる様な薬とか、実際に薬屋さんに並ぶ薬というものはそうそう出るものではないので、なかなか成果が上がらないという点では大変だったそう。薬の仕事は、例えば良い薬がとれたとしても実際に商品になるのはものすごい年月がかかり、研究開発をした人は、実際にこの薬を使った方と関わる事が殆どないわけです。医師としてやっていれば、自分が治療に携わり、直接顔と顔が見える仕事という点が魅力的だと思われました。大学院を出た後に、アメリカの大学で2年、日本の大学で研究者として2年、その後バイオベンチャー企業で5年ほど働かれました。現在、実際に医師として働かれて、患者さんと面と向かって色々仕事ができる事は一つの魅力だとおっしゃっていました。「自分としてはこれが天職だったと思いたいですね。」現段階では内科に進みたいと思われていますが、ただ、お子さんができた事もあり、小児科にも現在心を惹かれているとか。「患者さんにわかりやすい説明ができる医師というのは見ていて気持ちが良いというか、そうすると患者さんも医師に対して信頼感ももてると思うので。その様な事は、研究をやっていた時にも重視していました。全然研究に携わっていない人にどれだけ自分の研究内容をわかりやすく説明できるのか。今は、患者さんにありがとうとか、先生の話し方がすごく安心すると言われるとやっぱり嬉しいですね。」
<part2> 
アメリカ時代の事を伺いました。日本でなさっていた薬をつくる微生物の研究、微生物を使って遺伝子を分析したりしていたそう。車で少し走ると自然がいっぱいある所に住んでいたので、休みの日にそういう所に行くのが楽しみだったそうです。それを楽しみに頑張っていらしたとか。一番良く行っていたのが、ヨセミテ国立公園。氷河期にできた深い谷のあるところ。そこは住んでいた所から車で3時間〜4時間かかったそうですが、月に1回位は出かけて、ハイキングを楽しんでいたそう。日本では見ることのできない壮大な自然、1000m近く切り立った崖とか、高さが800〜900mある様な滝等が沢山あったそう。あとはラスベガスとか、グランドキャニオンとかにもよく遊びに行かれたそう。ある意味ストレス解消だったのでしょうね。アメリカ時代嬉しかった事は、ラスベガスでスロットマシーンで1000ドル、当時でだいたい10万円位が一度当たったことかな?と。車で色々な所に行かれるのが趣味のひとつ。釧路にいらしてからも、厚岸、標茶、鶴居などには足を伸ばし、美味しい食べ物を買ってきて家で食べることをよくなさっているそう。かつて独身時代に車で北海道や九州一周もなさったことがあるそうです。目的は北海道の美味しいものを色々食べよう!!根室で花咲蟹、函館の朝市でイカと毛ガニ、札幌でラーメンを食べたことは覚えているそうですが、釧路は来たはずなのに、記憶があまりないそう。
「とにかく患者さんに信頼される医師でありたいというのは常日頃から思っています。」とおっしゃっていました。北海道で医師をやりたくて医学部に入ったそう。北海道の医療というのは、広い土地に数少ない医療機関というのが一つの特徴だと思うと。特にこの釧路はある意味北海道の縮図だと思っているそうです。ここでどういった医療がなされているのかをできるだけ詳しく見て、それに対して自分が何をすべきなのかを考えていけたら・・・と思われています。
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2017.1004 O.A 市立釧路総合病院 研修医 上野あかり氏

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<part1> 
去年4月から釧路へ。出身が斜里町。地元にはあまりお医者さんがいなくて、小学生の時に勉強ができた子ということで、叔母様から「あかり、将来は医者になってこっちに戻ってくるんだよ」と刷り込みがあり、医師という選択肢がひとつ加わったそう。パン屋さんになりたいとか、アイドルになりたいとか・・そんな感じでお医者さんになりたいと思い始めたのです。さらにお祖母様が市立釧路総合病院に入院し、先生方がとても親切にしてくれたり、看護師さんが優しかったことで「あぁ、やっぱり人を治すとか、その人の人生に関わっていくって素晴らしいな」と、医師の道を本格的に目指したのです。それが20代になってから。実は医学部の前に研究者の道も考えられていたのです。実験が好きで研究をやりたいと思っていたそう。当時は褐藻の成分を抽出して、構造を解析するということをなさっていたとか。海藻の成分でこの中で何か新しいものはないか?あわよくばそこに薬効成分がないか?等と研究していたそう。でもやはり医師への道を目指したのは、お祖母様の件がきっかけになったという事なのです。最近、消化器内科へ進むことを決められたそうです。はじめは、なんでも診ることのできる総合内科医に憧れたのですが、特技を一つもちたいと思い、広く内科を診ることができて、技も持てるという意味から消化器内科を選ばれました。内視鏡がとても上手な先生がいたり、すごく熱心に教えてくださるそうで、こういう先生になりたいと思い選ばれたそう。現段階で思う理想のドクター像は、「ボロボロになって働いているくらいの先生ですね。自分の生きがいがそこにあるんだろうなって。カッコ良いですね、生き方が・・見ていて。もちろん患者さんのために、患者さんの生活の質を良くするために治療するためにということではあるのですが、そこが自分の生きる道みたいな感じで。そういう背中がカッコ良いですね。」尊敬できる先生が周りにいた事が自分も頑張ろうと思える事につながると。
<part2> 
山登りがお好きと。今まで地元の斜里岳、札幌の円山、藻岩山、大雪山、羊蹄山などに登っています。山登りはきつく、前日の夜に後悔するそう。「約束しなければよかったかな」って。でも行って帰ってくるとすごく気持ちが良いそうです。「頂上に着いてやったという達成感、山でご飯を炊いて食べる楽しさ、帰ってきてからグダッと疲れているのも好きですね」医学生時代にはワンダーフォーゲル部に所属。北海道の山はその時にだいぶ登ったそうです。お友達のお父様がツアーガイドをなさっていて、初めて大雪に連れていってもらい、そこで食べたご飯が美味しかったと。トマトとチーズを火で炙ってご飯を入れてリゾットみたいな感じにして作ってくれたのがとても美味しかったそう。その日は雨も降っていてとても寒く、来なければ良かったと本当に思ったそうですが、ご飯が美味しくて感動。それが山登りにはまったきっかけと。また、高校時代は吹奏楽もなさっていました。トランペットを3年間吹いていたそう。単純に格好良いと思い選んだと。当時は、網走南ヶ丘高等学校は吹奏楽で有名だったそう。ジャズの曲やマーチなども演奏していました。自分の楽器ではなかったので、それ以降は吹いていないそうですが、今機会があれば吹いてみたいとおっしゃっていました。実は楽器には触りたいと思っていて、釧路にはウクレレを持ってきたとおっしゃっていました。山登りになかなか行くことができないので、ウクレレを去年から始めたと。楽譜をみて独学でなさっているとか。夜中に一人で井上陽水の少年時代を弾き語っているそう。それがストレス解消になっているのでしょう。
「割いている時間から考えると今は仕事が趣味といえるかも。でも自分が役に立っている、石垣の石の1個にでもなれることができたら嬉しいと思うと嬉しいですね。地元には恩返ししたい気持ちがあるんです。その為にも広く色々なものをみて、将来的には臨機応変に対応できる様になりたいです。」
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2017.0927 O.A 釧路労災病院 副院長 小笠原和宏氏

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<part1> 
最近、釧路市の養護教員の方に依頼され、子供たちにガンを教育するという勉強会を開いたそう。実はガン対策推進基本計画という計画があり、5年毎に見直しされているそうです。この計画の中で、小学校中学校の子供たちにガンを教えようというのが目標の一つに掲げられました。小学校では道徳の時間に、中学校では保健体育の時間を使って。学校の先生にいきなりガンを子供たちに教えなさいと言っても困るのは当たり前。そこでガン専門医にどの様にして子供たちにガンを教えたら良いのかという相談がくるそう。そんな中、「がんになるってどんなこと?ー子どもと一緒に知るー」東京女子医科大学のがんセンター長 林和彦氏が書かれた本を入手。実際にガンの患者さんをたくさん診療している中で、ある女性が抗がん剤治療を受けて髪の毛が抜けてボロボロになった時に子供が無邪気に言った一言「おばあちゃんきたない」。その言葉を聞いて、これはまずいと・・・子供たちにもガンはどういう病気で、ガンを患っている人たちがどういう事を苦しんでいて、そういう人たちにどの様に接したら良いのかという事を教育しなければと気づかれたそう。学校の先生とガンを診療している医師と協力しあって子供たちに正しい知識を教える必要があると思うと小笠原氏。ただ、ガンという病気を学問として教えるだけではなく、ガンと闘っている患者さん、ガンで苦しんでいる人たちの心まで 子供たちに理解してもらう。人のことを思いやる、本当の意味での道徳教育みたいな感じでしょうか。「ガンを一つの教材として子供たちに自分の命と健康を守る、そして、病んでいる人達の体と心をいたわるという、将来良い大人になってもらう為の教育じゃないかな」大人になった時にやみくもに怖がるのではなく、正面からガンと向き合える様な子供達を育てたいというのがガン教育の基本ではないかと。さらに、子供を含めてガンと真面目に向き合うという環境をつくっていく必要があると思うとおっしゃっていました。
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早期発見すると、90%以上ガンは治るという文面が気になりました。病気によって色々な数字はでてくるそうですが、一般的に日本人に多いと言われている乳ガンや胃ガン、大腸ガンというのは、早期発見すると90%以上治ると思うと。やはり早期発見のためには検診。症状がないうちに見つける。例えば乳ガンの場合、外からもわかる場合もあります。見つけた患者さんは「ガンだったらどうしよう」「ガンだったら助からないんじゃないか」といって、実は逃げ出してしまう。こわくて病院に行けなかったという方が結構いらっしゃるそう。「でももったいない。すごくもったいない。ガンというのは自分の身体の中にできた病気。だから影みたいにどんなに逃げても逃げきれない。どうせ逃げられないなら立ち向かってやつけてやろうと。その方が結果的には勝てるチャンスがいっぱいあるんです。」ガンが不治の病という考え方がよくないと思うと。ガンは死ぬ可能性のある病気ではあるが、きちんと見つけて、きちんと手当すれば治るチャンスがあると。
緩和ケアはなくなる直前に麻薬を使って痛みをとったり、おみとりをする為の医療だと誤解されている方もまだ沢山いらっしゃいます。でもガンやなかなか難しい病気と言われた時から患者さんは心に傷を負うわけです。その痛みをゼロにすることはできなくても、苦しさを少しでも和らげることができるのでは?と。ですからガンの告知から緩和ケアは始まっているという事なのです。心と身体の痛みを緩和する。相手を思いやる心が緩和ケアの基本中の基本です。一番近い関係は家族。子供を中心にお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、兄弟もいて、家族がお互いに思いやることはできるはず。ただ、何も知識がない状態で、「ガンはこわいね、ガンになったら嫌だね」という話しではなく、ガンにならない為にはどの様な生活をしたら良いのか、どういう事をしてはいけないのかという事を、子供たちから家族に発信し、家族から地域の人へ、そしてこの国全体が少しでも良い方向に向かうことができれば・・・とアツい語りは続きました。
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2017.0920 O.A 太平洋記念 みなみ病院 内科 岡澤林太郎氏

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内科医になられて20年、みなみ病院で働かれて10年になるそうです。以前ご出演いただいた時に緩和ケアの勉強をなさっているとおっしゃっていました。今回は、その緩和ケアについて色々とお話しを伺いました。
以降は先生からの文章から一部を抜粋して掲載させていただきます。「7年前に母親を病気で亡くし、亡くなりゆく患者さんやご家族のケアが本当に大切なものであるとの認識を強く抱き、それより緩和ケア活動に力を入れて参りました。2012年4月に当院に多職種よりなる緩和ケアチームを結成し、定期的カンファレンスを実施。当時当院の病棟看護師が緩和ケアに慣れていなかったため、繰り返し学習会を行いました。苦痛少なく患者さまをお見送りできるために「モルヒネ」「入眠剤」などの使い方を徹底的に指導。そして市内医療機関より緩和ケアの患者さまをご紹介いただき、当院の病棟で看取らせていただいて参りました。その数は5年間で150名を越えています。病院の看護師の緩和ケアのスキルも向上し、以前に比べ患者さまへのケアもかなり良くなっていると感じております。その様な中、職員の意識が高まり、病院全体の雰囲気もより患者さまに優しく暖かいものに変わってきていると実感しています。数年前まで病棟で働く看護師の不足に悩まされてきましたが、若い正職員が勤務する様になり、病棟看護師の平均年齢も10歳以上若返り、病院全体が活気づいてきています。しかしながら現在の障害者病棟での緩和ケア活動の限界も明らかに・・。以前に行った看護師へのアンケート結果によりますと、緩和ケアの患者さんと一般の患者さんを一緒の病棟で看護する中では、緩和ケアの患者さんを十分にケアする時間的余裕に乏しく、満足するケアを提供する事ができず、その為仕事のやりがいが感じられにくくなっている現状があります。現状の体制ではこれが精一杯であると感じています。釧路市には緩和ケア病棟はまだ一つもありません。道内で約20カ所あり、来年度には帯広市で2カ所の緩和ケア病棟が開設。釧路地区に緩和ケア病棟ができる事は市民全体にとって大きな恩恵があると考えております。」
くしろ緩和ケアネットワーク http://kushirohospice.racms.jp/
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現在の岡澤氏の目的は、釧路地区に緩和ケア病棟をつくること。釧路で自分の家族がガンに侵され、終末期を迎えた時に安心して命を預けられる病院・病棟を設立する事なのです。彼の熱い思いはラジオを通してお聞きいただいた方には届いたことと思います。さて、9月23日に「地域に根差した緩和ケアを育む」という研究会が釧路で開催されます。実際に地域に根差した緩和ケア病棟を創り上げた北見と函館の院長や看護師の方のお話しや、地元釧路での緩和ケアの現状についてのお話しが聞く事ができます。
9月23日(土)13:00〜17:00  釧路市生涯学習センター まなぼっと幣舞 大ホール
第1部 記念講演「地域に根差した緩和ケア病棟を創り上げる」
 座長:札幌医療生活協同組合 札幌南青洲病院 理事長 前野宏氏
   13:00〜13:30 北見赤十字病院 がん看護専門看護師 部川玲子氏
   13:30〜14:30 医療法人 敬仁会 函館おしま病院 院長 福徳雅章氏
第2部 シンポジウム「釧路地区の緩和ケアの現状」14:45〜17:00
 座長:医療法人社団 サンライブ 杉元内科医院 院長 杉元重治氏
・市立釧路総合病院における緩和ケア:市立釧路総合病院 緩和ケア認定看護師 野呂真貴氏
・当院の緩和ケアの現状と、薬剤師としての関わり:釧路労災病院 薬剤師 小島佑太氏
・ケアマネジャーのチームアプローチ:ふわり居宅介護支援事業所 認定ケアマネジャー・看護師 森美佐子氏
・みなみ病院の緩和ケア活動と、緩和ケア病棟構想:みなみ病院 診療統括部長 岡澤林太郎氏
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入場無料、申し込み不要です。興味のある方、ぜひ足を運んでみてくださいね。
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